大判例

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大阪高等裁判所 昭和62年(ネ)2510号 判決

第一審原告(昭和六三年(ネ)第五三一号事件控訴人)

田村昌宏

右法定代理人親権者父

田村孝司

同母

田村咲子

第一審原告(同右)

田村孝司

田村咲子

平井弥生

平井光國

平井多津子

野口亜希子

野口榮吉

野口とき子

第一審原告(昭和六二年(ネ)第二五一〇号事件被控訴人)

後藤健一郎

右法定代理人親権者父

後藤洋平

同母

後藤裕子

第一審原告(同右)

後藤洋平

後藤裕子

右一二名訴訟代理人弁護士

稲村五男

川中宏

村井豊明

中尾誠

杉山潔志

若松芳也

佐藤健宗

第一審被告(昭和六二年(ネ)第二五一〇号事件控訴人・昭和六三年(ネ)第五三一号事件被控訴人)

日本赤十字社

右代表者社長

山本正淑

昭和六二年(ネ)第二五一〇号事件右訴訟代理人弁護士

田辺照雄

饗庭忠男

昭和六二年(ネ)第五三一号事件右訴訟代理人弁護士

中坊公平

谷澤忠彦

島田和俊

飯田和宏

藤本清

小堺堅吾

第一審被告(昭和六三年(ネ)第五三一号事件被控訴人)

右代表者法務大臣

三ケ月章

右訴訟代理人弁護士

堀弘二

右指定代理人

本多重夫

外一〇名

第一審被告(昭和六三年(ネ)第五三一号事件被控訴人)

京都府

右代表者知事

荒巻禎一

右訴訟代理人弁護士

中坊公平

谷澤忠彦

島田和俊

右指定代理人

江守喜清

外二名

第一審被告(昭和六三年(ネ)第五三一号事件被控訴人)

三菱自動車工業株式会社

右代表者代表取締役

館豊夫

右訴訟代理人弁護士

森川清一

岩田廣一

右森川清一訴訟復代理人弁護士

田中義則

主文

一  昭和六二年(ネ)第二五一〇号事件について

本件控訴を棄却する。

控訴費用は第一審被告日本赤十字社の負担とする。

二  昭和六三年(ネ)第五三一号事件について

本件各控訴を棄却する。

控訴費用は第一審原告田村昌宏、同田村孝司、同田村咲子、同平井弥生、同平井光國、同平井多津子、同野口亜希子、同野口榮吉、同野口とき子の負担とする。

事実

第一  申立て

(昭和六二年(ネ)第二五一〇号事件)

一  第一審被告日本赤十字社

1  原判決主文第一項を取り消す。

2  第一審原告後藤健一郎、同後藤洋平、同後藤裕子(以下「第一審原告後藤ら」という。)の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも第一審原告後藤らの負担とする。

二  第一審原告後藤ら

主文第一項と同旨

(昭和六三年(ネ)第五三一号事件)

一  第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告ら

1  原判決を取り消す。

2  第一審被告三菱自動車工業株式会社及び第一審被告国は、各自、

(一) 第一審原告田村昌宏に対し、金三三〇〇万円及び内金三〇〇〇万円に対する第一審被告三菱自動車工業株式会社については昭和四九年七月一〇日から、第一審被告国については同年八月一日から、内金三〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 第一審原告田村孝司、同田村咲子各自に対し、各金三三〇万円及び内各金三〇〇万円に対する第一審被告三菱自動車工業株式会社については昭和四九年七月一〇日から、第一審被告国については同年八月一日から、内各金三〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  第一審被告日本赤十字社及び第一審被告京都府は、各自、

(一) 第一審原告平井弥生に対し、金三三〇〇万円及び内金三〇〇〇万円に対する第一審被告日本赤十字社については昭和四六年五月七日から、第一審被告京都府については同年七月一四日から、内金三〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 第一審原告平井光國、同平井多津子各自に対し、各金三三〇万円及び内各金三〇〇万円に対する第一審被告日本赤十字社については昭和四六年五月七日から、第一審被告京都府については同年七月一四日から、内各金三〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

4  第一審被告国は、

(一) 第一審原告野口亜希子に対し、金三三〇〇万円及び内金三〇〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、内金三〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 第一審原告野口榮吉、同野口とき子各自に対し、各金三三〇万円及び内各金三〇〇万円に対する昭和四九年四月二日から、内各金三〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らは、原判決請求原因5記載の範囲内において右2ないし4のとおりに当審で請求を減縮した。)

5  訴訟費用は第一、二審とも第一審被告らの負担とする。

6  2から5につき仮執行宣言

二  第一審被告ら

主文第二項と同旨

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、次のとおり付加、訂正、削除するほか、原判決事実摘示中第一審原告らと第一審被告ら関係部分と同一であるから、これを引用する。

一  原判決事実摘示の訂正

(以下、原判決の頁を、アルファベットとアラビア数字で示す。)

1  B26裏六行目の「余後」を「予後」と改める。

2  B51表九行目から同一〇行目にかけての「診断された状況にあったのであるから、」を「診断されたところ、その後、同月二三日の眼底検査(担当本多医師)では、境界線が両眼につき深部に及ぶほか、滲出が認められ、同月二五日の同検査(担当山元医師)では左眼境界線上にわん入部が認められ、更に、同月二七日の同検査(担当内田医師)では両眼に境界線が著明であるほか、硝子体腔へ向かう滲出が認められた。したがって、」と改める。

3  B51裏三行目から同四行目にかけての「ならなかったのに」の次に「(同月二三日の滲出は、同月二七日の硝子体腔へ向かう滲出と同一症状であったから、同一検者による眼底検査が行われていたら、同月二三日に凝固手術することができた。)」を加える。

4  B58裏末行の「それぞれ」を「各」と改める。

5  B76表七行目から同八行目にかけての「ヘイジイ・メデア」を「ヘイジイ・メディア」と改める。

6  B81裏二行目の「ことには」を「ことに」と改める。

二  第一審原告らの当審における主張

(第一審原告ら)

1 凝固治療の最近の評価

(一) 米国における比較対照実験

一九八八年(昭和六三年)四月、米国において、冷凍凝固治療について対照実験をした結果、完全に有効であるとの報告が発表された(アーカイブス・オブ・オフサルモロジー一〇六巻)。それによると、米国中東部諸州の二三センター、六〇医療施設が参加して本症に対する冷凍凝固対比実験グループが結成され、一九八七年(昭和六二年)一〇年三一日から対照実験を実施したところ、その三か月後の結果として、一七二名の乳児につき、後極部網膜剥離等の不良結果は、非治療眼が四三パーセントであるのに比べ、冷凍凝固を受けた治療眼は21.8パーセントであって有意に少なく、このデータは不良結果のリスクを約二分の一に減少せしめるという冷凍凝固の有効性を裏付けているとしている。この実験においても、我が国に比べ治療時期が遅いのであって、我が国の基準に従って早期に治療を行っていれば更に冷凍凝固の有効性が明確になったはずである。

(二) 我が国におけるプロスペクティブスタディ

我が国においても、昭和五九年から昭和六〇年にかけて全国一二施設一四病院が参加して大規模なプロスペクティブスタディが行われ、その結果が昭和六三年四月一〇日発表された(永田誠外「多施設による未熟児網膜症の研究」、日本眼科学会雑誌九二巻四号)。それによると、六〇〇例、一一九九眼を対象としてプロスペクティブスタディを行ったところ、本症の発症確率がⅠ型二期以上60.0パーセントであり、そのうちⅡ型、中間型は全例、Ⅰ型は三期以上に進行したものにつき治療を行ったが、治療症例は10.8パーセント(六五例)であり、治療成績は、三度以上の重度瘢痕を残したものが全症例の一パーセント(六例)であり、両眼失明したものが0.7パーセント(四例)であった。したがって、凝固治療の有効性は我が国においても改めて実証された。

(第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告ら)

2 医療水準について

(一) 原判決は、医療水準を「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である」として、専門医と一般の臨床医とを区別せず、しかも、医療水準に基づき第一審被告らに対し治療責任を問いうる時期を一律に昭和五一年以降と判断している。

しかしながら、医療水準については、一般の臨床医と、研究者、更に、その両者の中間にある「未熟児の眼底検査を日常的に行っている眼科医」(当審鑑定人馬嶋昭生の鑑定。以下「馬嶋鑑定」という。)とを区別すべきであり、医療水準の確立時期も同様に区別して考えるべきである。

(二) 第一審原告弥生は、昭和四六年三月六日第二日赤病院で出生して同病院で眼底検査を受けた後、同年五月一七日に府立医大病院に転院し、同病院で光凝固を受けたが失明した。次に、第一審原告亜希子は、昭和四八年一二月一四日渡辺産婦人科病院で出生し、翌一五日京大病院に転院し、同病院で眼底検査を受け、更に光凝固を受けたが失明した。更に、第一審原告昌宏は、昭和四九年五月一六日三菱京都病院で出生し、同病院で眼底検査を受け、同年七月一三日頃国立京都病院に転院し、同病院で光凝固を受けたが失明した。

第一審原告らが責任を追及しているのは、以上の医療機関のうち、一般の臨床医である渡辺産婦人科病院を除く各病院であるところ、右各病院はいずれも総合病院であって、各患児の親が大きな病院だから安心したと述べるように、本来的に医療水準が高いことが期待されている病院であった。

(三) また、第一審被告らが開設する病院は、光凝固を本症に初めて適用した天理よろづ相談所病院と、地域的にも深いつながりのある病院であった。

京都近辺における事情は、次のとおりである。

(1) 第一審被告京都府が開設する府立医大病院では、昭和四一年に光凝固機材を購入し、同年に糖尿病性網膜性の治療が行われていた。本症に関しても、光凝固を施行する物理的、技術的前提が同病院には備わっていた。同病院では、昭和四四年一〇月に原審相原告であった志水政子に対し光凝固を施行している。

(2) 永田医師は京都大学の出身であり、昭和四二年一〇月に開催された京大眼科同窓会総会において光凝固術を本症に施行したことの報告をした際、その場には、京大出身の医師一〇〇名位が出席していた。第一審被告国が開設する京大病院は勿論、第一審被告らの病院には京大系列の病院があり、右報告は、これらの病院に早期に伝わることとなった。

(3) 第一審被告らの病院の医師が、単なる一般の臨床医でないことは明らかである。特に、府立医大病院の医師は、研究者に近い位置にあった。また、その他の病院の医師も、光凝固を行っていた病院の医師は勿論、行っていなかった三菱京都病院の医師も、右のとおりの京都近辺の地域の事情からみれば、「未熟児の眼底検査を日常的に行っている眼科医」であるにとどまらず、より研究者に近い位置にあった。

(4) 第一審被告らが開設する病院は、それぞれ、遅くとも第一審原告弥生、同亜希子、同昌弘の治療にあった時期には、光凝固の実施につき医療水準に達していたのであり、したがって、第一審被告らは、賠償責任を免れない。

3 予備的請求原因

(一) 仮に、未熟児網膜症の治療法としての光凝固法、冷凍凝固法が治療水準に達した時期が昭和五〇年末頃であり、治療水準に達する以前に本症に罹患した患児について、担当医師が治療責任を負わないとしても、医師には、全知識全技術を尽くした誠実な医療を施す義務、本症の患児に適期に凝固法を受けさせる機会を奪ってはならない義務があるから、担当医師は、その不誠実な治療自体につき、または、適期に治療を受ける機会を奪ったこと自体につき、これにより患者側に与えた精神的苦痛を慰謝するための賠償をすべき責任がある。けだし、医師と患者との間の医療契約には、当時の医療水準に拠った医療を施すこと以外にも、ち密で真しかつ誠実な医療を尽くすこと、適期に治療を受ける機会を奪ってはならないことも包含されており、結果発生と医師の作為、不作為との間に因果関係がない場合でも、医師は、医療契約上の義務違反による責任を負わなければならないのである。

また、この場合、医師は患者に対し、患者の期待権を侵害したものとして、不法行為に基づく損害賠償責任を負担することにもなる。

(二) 本件では、第一審原告弥生、同亜希子、同昌宏は、いずれも昭和五〇年末以前に出生し本症に罹患しているが、仮に、右罹患当時本症の治療法として凝固法が治療水準に達していなかったとしても、各担当医師には、以下のとおり、誠実医療義務違反に基づく責任又は凝固法を適期に受ける機会を奪った責任があり、第一審被告らは、第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らに対し、慰謝料を支払うべき義務がある。

(1) 受療機会喪失による賠償責任

昭和四二年三月に永田医師が本症に光凝固法を適用して成功して以来、第一審原告弥生、同亜希子、同昌宏が本症に罹患した当時、既に全国各地で多くの医師が本症に凝固法を適用して成功し、その旨の報告も多数発表されていたのであるから、本症による失明という重大な結果を目前にするならば、患児が適期に凝固法を受け、または、両親が患児にこれを受けさせる機会は尊重されるべきであり、この機会を奪った医師には過失がある。したがって、第一審被告らは、第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らに対し、慰謝料を支払うべき義務がある。

(2) 誠実医療義務違反による賠償責任

未熟児の保育、医療を施すについて、各担当医師には、研鑽義務の外、呼吸管理、酸素管理、体温管理、栄養管理、感染防止等の全身管理を誠実に尽くすべき義務が存するところ、各担当医師は、各患児について、次のとおり右義務を怠った過失があるから、第一審被告らは、右第一審原告らに対し、慰謝料を支払うべき義務がある。

(a) 第一審原告昌宏

イ 研鑽

第一審原告昌宏の担当医であった小柴医師は、同原告を扱う前に既に多くの未熟児を診療し、原審相原告であった山川秀樹、宮武幸夫を未熟児網膜症に罹患させていたのであるから、他の医師にもまして、未熟児医療について研鑽すべき義務があった。小柴医師が二名の診療に従事した昭和四三年(山川秀樹)、同四六年(宮武幸夫)から昭和四九年までの間に、多くの文献が発表されて医学上の進歩が著しい時期であったにもかかわらず、同医師は、第一審原告昌宏担当の頃「酸素投与をできるだけ短くしようとした」点にのみ知見を変えたものの、その他の知見に異なるところがなく、眼底検査の実施、酸素投与管理のほか、保温、呼吸数等の全身管理について、当時の医療水準につき何ら研鑽を積むことなく、医療行為を行った。

ロ 酸素投与

未熟児に対する酸素投与は、少なくともチアノーゼ、呼吸障害がある場合にのみ行われるべきであり、血中酸素濃度を測定して酸素投与し、また、投与量をウオーリー・アンド・ガードナー法を用いてできる限り減少すべきであった。ところが、小柴医師は、このような措置をとらず、呼吸状態の良い第一審原告昌宏に対し、漫然と酸素を投与し続けた。

ハ 低体温

未熟児が低体温である場合にはこれを解消するための処置をとることは常識であるが、小柴医師らは、同原告に生後一四日目以降も低体温が継続していたにもかかわらず、これに対し何らの処置をとらず、低体温のまま放置した。このような担当医の全身管理に関する管理の不十分さ杜撰さが本症発症の要因ともなった。

ニ 診療記録の記載

小柴医師ら担当者は、カルテを含む診療記録につき、極く簡単な記載をするに止まったほか、その記載には日にちの誤記があるなど、不十分な記載しかしなかった。

ホ 眼底検査実施時期

生後遅くとも三週間以降、眼底検査を頻回に行うべきことは、未熟児を扱う三菱京都病院のような大病院では常識に属することであったが、同病院は、退院間際の生後五五日目に初めて眼底検査を実施した。

ヘ 転医体制

第一審原告昌宏のような未熟児を転医させるについては、担当医が同行するほか、患児を保育器に入れ、全身状態、呼吸状態を保全するなどして万全の体制をとるべきである。

ところが、三菱京都病院は、昭和四九年七月一一日及び同月一二日同原告を京大病院に行かせるに際し、医師、看護婦を同行させず、また、同原告を保育器に入れることなく、裸の状態のまま両親に連れて行かせた。その結果、同月一二日に同病院で行われた光凝固の手術の際には、小児科医の立会いもなく、同原告の父親である第一審原告田村孝司が第一審原告昌宏の頭を押えて手術する事態となった。

また、三菱京都病院は、同月一五日同原告が同病院から国立京都病院に転医するに際しても、母親に同原告を裸のまま連れて行かせた。

(b) 第一審原告弥生

イ 全身管理

第二日赤病院の第一審原告弥生担当の主治医であった三好医師は、同原告が生後七二日間入院していた期間、出生した日を含めわずか延五日しか診察せず、看護婦まかせにし、不誠実な医療を行った。

ロ 酸素投与

三好医師は、同原告の呼吸状態が改善されているにもかかわらず、生後五八日間もの長期間酸素投与を続けた。

同医師が血中酸素濃度ないしウオーリー・アンド・ガードナー法を指標として酸素管理を行っていれば酸素投与期間を短くできたはずであり、第一審原告弥生は、未熟児網膜症に罹患せずにすんだ。第一審原告平井らとしては、同医師がウオーリー・アンド・ガードナー法を用いてなおかつ長期間酸素投与を続けざるをえなかったのであれば諦めもつく。しかしながら、同法を採用せずに長期間酸素投与を続けた同医師の右処置に対し、同法により酸素管理をしてくれてさえいたら、第一審原告弥生に対する酸素投与期間は短くてすみ、同原告は未熟児網膜症に罹患しなかったとの思いを否定できず残念である。

ハ 眼底検査、光凝固

第二日赤病院は、同原告に対する眼底検査を大幅に遅らせたため、未熟児網膜症の発症を発見できず、同原告に初めて眼底検査を実施した時には、既に未熟児網膜症に罹患していて手遅れであり、同原告から光凝固による治療の機会を奪った。これは、同病院の小泉医師が、未熟児網膜症は酸素投与中には発生せず、投与中止後に発生するものであるから、投与中止後に眼底検査を実施すればよいとの誤った知見を有していたことに拠る。昭和四六年当時の一般的知見は、光凝固法による治療の機会を失わないように、酸素投与中にも定期的に眼底検査をするという所にあり、同医師の見解は当時ほとんど支持されなくなっていた。

同病院では、昭和四四年二月に原審相原告であった山口光昭が、同年八月には同志水政子が未熟児網膜症に罹患しており、長期間酸素投与がその原因であることが容易に分かったにもかかわらず、小泉医師は、さしたる根拠なくして自説にこだわり、酸素投与中は眼底検査をしなかったのであり、医師の研鑽義務に違反し、不誠実な医療行為を行った。同医師の見解が昭和四六年当時の医学会で多少とも支持されていた見解であるならば、第一審原告平井らは諦めもつくが、右見解は当時既に淘汰されていたのであり、同医師が自己の説に固執して眼底検査の遅れをもたらし、このため光凝固手術の適期を逸したのであるから、第一審原告平井らとすれば諦めがつかない。

(c) 第一審原告亜希子

イ 眼底検査、光凝固

第一審原告亜希子の凝固手術の適期は、昭和四九年二月二三日であったが、眼底検査ごとに検査医師が変わったため、京大病院は、同原告の適期を見逃した。同一医師による眼底検査が必要であることは当時既に指摘されていたのであり、適期を誤らずに凝固手術が行われていたら、同原告が失明を免れた蓋然性は高かったのであり、同病院は同原告から光凝固による治療の機会を奪った。第一審原告野口らの心残りは思って余りある。

ロ 回答箋の改ざん

同病院は、カルテに貼付した永田医師の回答箋を、責任回避のため同医師に依頼して自己に有利に書き替えて貰った。まさに、不誠実、杜撰な医療である。

(第一審原告後藤ら)

4 第一審原告健一郎について

(一) 未熟児に対する眼科的管理体制上の過失

第一日赤病院は、昭和四一年に未熟児センターを設置して未熟児治療を行うようになり、昭和五二年頃には、約三〇名の入院患児に対して三名の眼科の常勤医師が診療を担当していたが、眼底検査は、赤木医師が嘱託医として毎週一回金曜日に同病院に来てこれを行い、凝固手術は原則として常勤の医師が行うという態勢がとられていた。

ところで、四九年度研究班報告(以下単に「研究班報告」ともいう。)によれば、未熟児網膜症の眼科的管理は、同一検者による規則的な経過観察が必要であり、眼底検査の間隔は一週間に一回、発症を認めた場合は必要に応じて隔日又は毎日眼底検査を施行して病勢を把握することが必要であるとしている。

ところが、同病院では、未熟児の眼底検査を行って未熟児網膜症の経過を観察する医師と、実際に凝固手術を行う医師とが制度的に分離しており、しかも、赤木医師は、週一回しか診察に来ないのであるから、研究班報告がいうような、同一検者による隔日又は毎日の眼底検査を行うことは不可能であり、常時二〇ないし三〇名の未熟児を入院させてこれを管理する病院として十分であった。

現に、赤木医師が学会出張の際、竹内医師が眼底検査を行ったが、同医師は、昭和五二年二月八日以前には眼底検査をしていないし、同日第一審原告健一郎(以下単に「健一郎」ともいう。)に本症発症を認めながら、同日以降頻回の眼底検査を行なわなかった。

また、眼科カルテの記載においても、そもそも同カルテには眼底図を記載する欄がないし、実際にも同月四日から同月一八日までの間、眼底図は全く記載されておらず、眼底所見が記載されていたとしても簡単なものであった。

(二) 健一郎に対する眼科管理上の過失

(1) 健一郎は次のとおり二月一八日頃が凝固手術の適期であったにもかかわらず、担当医師には、これを把握することができず凝固手術の適期を逸して健一郎を失明にいたらせた過失がある。

(a) 同月四日 健一郎は、同日の時点で、本症Ⅰ型が発症し、一期に入っていた。このことは、眼底検査を実施した担当の眼科医である赤木医師により、カルテに、「無血管領域大変広いです。無血管領域との境界は鮮明です。重症です。」と記載されていることより明らかである。したがって、研究班報告によれば、発症後隔日又は毎日眼底検査を実施して経過を観察すべきであるが、赤木医師は、眼底検査の間隔を週一回にしただけで、右経過観察措置をとらなかった。

(b) 同月八日

健一郎の本症は、同日の時点で、本症二期から三期に進行し、凝固手術が必要な状態にあった。このことは、眼底検査を実施した担当医である竹内医師により、カルテに、「手術が必要ですが、全身状態如何でしょうか。」と記載されていることから窺うことができる。ところが、竹内医師は、頻回の眼底検査を実施せず、漫然と週一回の眼底検査を続けたにすぎなかった。

(c) 同月一八日

同日に眼底検査が行われたが、健一郎の症状は更に進行していた。竹内医師が同日の眼底検査の結果に基づいて病期を二期の終わりから三期の始めと判断したのであれば、病勢の把握を誤ったのであり、同日が凝固治療の適期であった。事実、同日のカルテには、「手術が必要です。」と記載されている。

竹内医師は、第一日赤未熟児センターで、未熟児の眼底を日常的に見ており、冷凍凝固も三〇例は行っていた経験を有する医師であったのであるから、同日の段階で健一郎の本症が急速に進行することを予測できたはずであり、当時健一郎の全身状態は良好であったから、健一郎に対し、直ちに凝固手術を施行すべきであった。

(d) 以上によれば、竹内医師は、同月八日の眼底検査の後、頻回に眼底検査を行っていれば、健一郎の病勢を正しく把握でき、同月一八日までの間に適期を失うことなく凝固手術を施行できたはずであるのに、このような眼底検査を怠り、漫然と二月二三日に凝固手術を実施することとして、凝固手術の適期を逸した過失がある。その結果、健一郎の網膜症は、同月二三日の手術予定日には、既に三期の後期になって適期を逸する状態となり、同月二五日に緊急に手術をした段階では四期となって手術の効果を期待できない状態となっていた。

(2) 健一郎が失明を免れた可能性

昭和五一年一一月に発表された宿題報告(馬嶋昭生・日本眼科学会雑誌八〇巻一一号「宿題報告Ⅰ」)によると、昭和四五年一月一日から昭和五〇年六月三〇日までの間に入院し原則として七二時間以内から管理された四七〇例について、失明した例は一例もないとされている。そして、この未熟児のなかには、生下時体重一〇〇〇グラム未満の新生児が七例、在胎週数二八週未満の新生児が一〇例含まれている。したがって、出生時から充分小児科的管理をし、眼底検査も同一検者が網膜症の進行を把握して適期に凝固手術を施行すれば、昭和五〇年当時においても、超未熟児について未熟児網膜症による失明を防ぐことができた(なお、同様の報告は、馬嶋昭生・臨床眼科三五巻八号「極小未熟児の増加と網膜症の発生、進行に関する統計的研究」、永田誠・周産期医学一六巻八号「未熟児網膜症の治療成績と予後」によってもなされている。)。

確かに、Ⅱ型ないし混合型については光凝固等の手術をしても失明を免れることができない場合もないことはないが、健一郎の本症はⅠ型であり、二月八日以降の全身状態も凝固手術を許さないような状態にはなかった。したがって、眼底検査等により病勢を正しく把握して、適期に凝固手術を行っていれば、健一郎は失明を確実に免れた。

(三) 二月二三日(凝固手術予定日)の手術中止についての責任

(1) 健一郎の呼吸停止の原因について

(a) 当日の健一郎の全身状態

健一郎に行われていた酸素供給が二月八日に初めて停止された後、同月九日に健一郎は呼吸停止に陥ったが、短時間で回復した。同月一二日以降再び酸素投与が打ち切られ、同月二三日当時健一郎は比較的安定した全身状態にあった。

(b) 呼吸停止の原因を認定するための前提事実

健一郎に対する凝固手術の予定日であった同月二三日健一郎に対し、午前一二時の直前に栄養カテーテルにより鼻腔を通じてミルクが与えられた。その後、健一郎の顔面清拭の直前に、右カテーテルの抜去が行われ、その直後に健一郎に呼吸停止が起きた。これに対し、気管吸引が行われて淡黄色粘稠液中等量が吸引されたが、その内容物はミルクないしミルク滓であった。このことは、その後に行われた胃吸引によりミルク滓が吸引されていることからも明らかである。

(2) 呼吸停止に対する第一日赤病院の過失

同月二三日に予定されていた健一郎の凝固手術に際し、第一日赤病院の医師ないし看護婦には、次のとおり、手術直前の授乳時間の管理を誤るとともに、カテーテルの操作を誤ったことにより、健一郎に呼吸停止を起こし、手術を不可能にした過失があり、その結果、健一郎は同日の手術の機会すらも奪われた。

(a) 授乳時間の管理の過誤

授乳等によって胃が膨張した後は発作を起こしやすいのであるから、健一郎が未熟で呼吸停止の危険性があり必要最小限の術前処置によっても呼吸停止に陥る可能性があると判断したならば、授乳から術前処置までに充分な時間を置くか、術前処置の前に胃吸引を行って、健一郎の負担を少なくさせるべきであった。ところが、担当医師らは、術前処置を行う午前一二時の直前に健一郎にミルクを与えた。その結果、午前一二時の顔面清拭を行う直前に健一郎に呼吸停止を引き起こした。

(b) カテーテルの操作の過誤

担当看護婦は、健一郎のカテーテルを引き抜く際にカテーテル内のミルクを健一郎に嚥下させるか、または、抜去の際の過誤により喉頭付近のミルク滓を嚥下させるかして、健一郎の気管にミルクかミルク滓を詰め、そのため、健一郎に呼吸停止を引き起こした。

三  第一審被告らの当審における主張

(第一審被告ら)

1 最近の未熟児網膜症の発生状況と発症原因

(一) 本症の発生状況

(1) 米国における近年の本症発生状況

我が国に比して、はるかに高額な医療費が投じられ、人的、物的設備が整備された新生児集中治療施設(NICU)を有する米国においても、本症は今なお発生が続き、本症の発生は不可避とされている。未熟児には低酸素症がある場合にだけ酸素を投与し、しかも動脈血酸素分圧を測定して過剰な酸素投与を避けるように厳重な注意が払われているにもかかわらず、一九七九年(昭和五四年)に米国で本症のために失明した児は五四六名と推定されており、これは一九四三年(同一八年)の高濃度酸素投与時代の失明児に匹敵する数である。現在は本症の第二の流行期とすらいわれている。ごく最近においても、昭和六三年二月に、米国で毎年五〇〇人の新生児が死亡する、酸素分圧の監視にもかかわらず未熟児網膜症になる新生児がこれまで以上に増えていると報告されている。

(2) 我が国における近年の本症発生状況

我が国においても、本症は減少しておらず、超未熟児の生存率が高まるにつれて、かえって発症率は増加している。特に一五〇〇グラム以下の極小未熟児に本症の発生が多く、失明率も低くない。

(二) 現時点における本症の原因論と発生防止の不可能性

(1) 現時点で到達した結論

近年の酸素分圧管理のもとにおいてもなお本症が発生することから、世界各国で本症の発生原因が検討し直されている。その結果、外国の著名な学者を初め、我が国の研究者の多くは、「本症は多因子性疾患で、酸素が唯一の原因ではなく、未熟児出生に伴う危険因子が相互に関連して発生するものであり、しかもほとんど全ての因子は現在の未熟児医療上避けられないもので、出生した未熟児を生存させるためには不可欠な治療行為に関連する。」との結論に達している。

本症は、未熟性を基礎としてその上に複雑な因子が関与して発生するものであるが、どのような因子の組合せが本症の発生、進行の促進効果を持つのかは現在のところ全く不明であり、現在もなお、本症の発生の予防は不可能といわれている。したがって、酸素投与を初めとしてどの治療方法、保育方法といえども当該方法が不適切であったから未熟児網膜症に罹患したといえるような、本症罹患との因果関係を肯定することはできないのである。

(2) 本症発生と酸素濃度、酸素投与量

従来、本症の発生は、過剰な酸素の投与によるものといわれてきた。

しかし、近年になって、米国における酸素制限による本症発生の減少は、本症の危険の高かった新生児が低酸素症により死亡したためであって、酸素が本症の因子だったことを証明するものではないことに気付かれた。即ち、酸素の制限によりもともと本症発生の危険性の少ない出生体重の大きい児のみが生き残り、本症発生率の高い極小未熟児が本症を発症する以前に死亡したため、本症の発生が統計的に減少したことがのちに判明したのである。一方では、むしろ低酸素症が本症の原因とする説すら学者により提唱されており、結局、現在では、過剰酸素投与あるいは高濃度酸素を本症の原因とすることに疑問が提起されている。

また、環境酸素濃度と網膜の動脈血における酸素濃度が単純な相関関係にないことから、本症の発生は動脈血酸素分圧が関係するといわれるようになり、米国で一九七一年(昭和四六年)に米国小児科学会胎児新生児委員会が動脈血酸素分圧の維持等について勧告をし、我が国でも昭和五二年八月に日本小児科学会新生児委員会が「未熟児に対する酸素療法の指針」を発表した。それによると、動脈血酸素分圧を六〇ないし八〇ミリヘクトグラムに保つことが望ましいとされた。

しかしながら、脳障害と本症の双方を防ぐ動脈血酸素分圧の安全域は、現在に至ってもまだ示されてないし、動脈血酸素分圧が本症の単一の原因ではあり得ないとされている。即ち、動脈血酸素分圧六〇ないし八〇ミリヘクトグラムでも本症が発生すること、経皮的動脈血酸素分圧測定を使用する前後で本症の発生率に差異がないこと、酸素投与を制限的に行うことになって以来、本症患者の中に脳障害などの重複障害を持つ者が増加していることが近年報告され、以上のとおりの結論が導かれたのである。

更に、経皮的動脈血酸素分圧測定法により動脈血酸素分圧が連続的に測定できるようになった現在、未熟児の動脈血酸素分圧は変化が激しく、連続的に測定しなければ意味がないこと、一定の動脈血酸素分圧に保つように酸素の投与量を制限することは不可能であることが判明した。

結局、現在でも、動脈血酸素分圧の測定により本症の発生を防止することは不可能である。

(3) 本症発生と酸素投与期間

従来、酸素の投与期間が本症の発生に関係し、長期間投与する程本症の発生率が高くなると主張されてきた。しかし、現時点においてもなお本症発生の危険はどの位の期間で生ずるのかという持続時間の危険値は見出されておらず、したがって、酸素投与期間をどの位にすべきかの指標は示されていない。

(4) その他の発生原因

以上のとおり、いかなる基準で酸素を投与すべきかについて四〇年近く研究されてきたものの、現時点においても臨床レベルでは酸素の問題は未解決のまま残されており、現在でも未熟児に対する酸素投与は、当該患児の一般状態、チアノーゼ、未熟性を総合判断し、個々の医師の裁量で決められているのが実態であり、安全確実な療法は未だ示されていない。

この外、二酸化炭素、無呼吸、輸血、動脈開存症、敗血症、脳室内出血、ビタミンEなど種々の原因が従来より本症の原因として検討されてきたが、いずれも単一病因とは認められておらず、相互に複雑に関連して本症の原因となっていると考えられている。しかも、どのような因子の組合せが本症の発生、進行の促進効果を持つのかは全く解明されていない。

(5) 以上のとおり、現在においても、本症の発生原因は解明されていない以上、酸素を含む全身管理上の措置と本症罹患との間に因果関係を肯定することはできず、第一審原告ら主張の発症責任を問うことはできない筋合いである。また、未熟児の診療にあたる医師に対して、いかなる措置をすれば生命も脳も助け、本症の発生を防ぐことができるのか、全く知らされていない。本症は、網膜の未熟性を基盤として発生する疾患であり、現在でも予防することができない。したがって、第一審被告らは、第一審原告ら主張の結果回避義務も負っていないといわざるを得ない。

2 四九年度研究班報告の評価とその位置付け

(一) 日本の眼科昭和五〇年八月号に公表された四九年度研究班報告(以下同報告の分類を「旧分類」という。)は、未熟児網膜症に対する治療法の確立を前提としたものではなく、臨床医学の実践における医療水準の形成を意味するものでもない。そもそも旧分類の作成当時において、各研究班員でさえ臨床経過の極めて多様な本症の病像、病態の把握が充分でなかったため、明確な診断基準を作成しえなかっただけでなく、治療上最も重要な光凝固の時期、部位、方法等についての客観性のある治療基準そのものについても、はっきり示しえない状況にあったのであり、同報告は曖昧な指針しか示せなかった。

そこで、旧分類をより明確にするため研究が継続して行われ、日本眼科紀要昭和五八年九月号(三四巻九号)に「未熟児網膜症の分類の再検討について」と題して、旧分類の改訂内容が公表された(以下「新分類」という。)。しかし、新分類によっても、治療時期については明確な指針は示されておらず、現在でも各治療者の主観的判断に委ねられている状況である。

(二) 四九年度研究班報告以後、未熟児網膜症の診断、治療についての状況は、次のとおり変貌し、同報告が臨床医学の実践における医療水準として確立していたとはいえない。未熟児網膜症は、予防、治療いずれの面でも未解決の問題を抱えており、診断と治療だけをとってみても、国内だけでなく、国際的にもなお検討が続けられている疾患である。

(1) 四九年度研究班報告は、「Ⅰ型は比較的緩徐な経過をとるものである」としたうえ、「三期において進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となる」としたが、第一審原告健一郎罹患の本症(ただし、馬嶋鑑定は、中間型も否定できないとする。)のように、Ⅰ型で、ある時期から症状が急速に進行する重症例が出現するようになり、後に問題となった。植村恭夫教授も、「Ⅰ型の中に、自然軽快の傾向を臨床像で示していたものが突如として剥離に向かうものがある。これは、この眼疾に多くの経験を持つ者においても予測がつきにくい。これが光凝固の評価ともからみ、後に問題となってきたところである。」としている(小児科昭和五五年九月号「未熟児網膜症」)。

(2) Ⅱ型については、後記3のとおり、その治療効果、治療成績に、大きな限界がある。

(3) 右(Ⅰ)のとおり、昭和五八年九月に新分類が公表され、これによりⅠ型、Ⅱ型ともその診断基準がより明確にされ、かつ、中間型が加えられたが、この中間型についても先駆的研究者において苦慮している状況にある。

(4) 本症の病型、病態に対する考え方に次のような変化が見られる。昭和五六年一二月に米国で開催された国際会議において、我が国の研究者が主張したⅡ型は採用されなかった。日本が示した眼底写真には欧米の研究者が見ると境界線(デマルケーションライン)が存在し、Ⅰ型の重症例に過ぎないことが根拠とされた。

その会議に参加した馬嶋昭生教授も、馬嶋鑑定において、「未熟児網膜症にⅠ型とⅡ型という違った型のものがある訳ではなく、極めて急速に進行する重症型をⅡ型と便宜上名付けているだけである。Ⅰ型とⅡ型はある一線で区切られるものではなく、そのために移行型(中間型)が設けてある。」としている。

3 Ⅱ型など激症型に対する光凝固法、冷凍凝固法の限界

(一) 我が国における光凝固法、冷凍凝固法の成績とその限界

(1) Ⅱ型など激症型に対する光凝固法、冷凍凝固法については、奏効機序が未解決であることと相俟って、本件当時は勿論、昭和六〇年代に入ってからも、凝固の時期、方法などの点を含め、失明防止のための確たる治療基準は示されておらず、なお研究段階にあり、失明例の報告も少なくないというのが実態である。

(a) Ⅱ型網膜症の権威である森実秀子医師は、昭和五七年時点での証言で、Ⅱ型網膜症についての統一的な治療基準はいまだ存在しないと述べている。また、いずれも昭和五七年時点での証言で、植村恭夫教授は、Ⅱ型は適期と思う時期に光凝固しても有効性は三〇パーセントにすぎないと述べ、永田誠医師も、適期に光凝固しても半分治癒すれば良い方であると述べており、ともにⅡ型網膜症に対する光凝固の限界を明確に認めている。

(b) 実際にも、最先端医療機関である国立小児病院において昭和四六年から昭和五九年までの間に光凝固したⅡ型網膜症の治療成績をみてもその殆どが失明の結果に終わっており、昭和五六年から平成二年までの過去一〇年間の光凝固、冷凍凝固による治療成績は瘢痕四度以上となった不良例が七五パーセント(有効率二五パーセント)を占めているとされている。その他、日本赤十字社医療センターで昭和五一年から昭和五五年までの間に扱った未熟児のうち、Ⅱ型を含む重症未熟児網膜症八例に光凝固と冷凍凝固が繰り返し行われているが、五例が瘢痕四度、一例が瘢痕三度という結果に終わっており、Ⅱ型本症やⅠ型重症例に対する凝固治療の大きな限界を示している。

(二) 米国における冷凍凝固法対照実験の到達点

未熟児医療の先進国である米国においては、本症は現在なお多発しており予防に大きな限界があることから、冷凍凝固法の対照実験に踏みきらざるをえないという状況があったところ、冷凍凝固法対照実験共同グループは、一九九〇年(平成二年)一〇月にその結果を報告した(「未熟児網膜症に対する冷凍凝固法の多施設実験―構造上及び機能上の一年間の観察結果」、アーカイブス・オブ・オフサルモロジー一〇九巻)。右報告によれば、Ⅱ型網膜症の場合、治療しない場合の不良眼は93.8パーセントであるが、治療した場合でも87.5パーセントが不良眼で無効となっており、冷凍凝固をしても不幸な結果に終わる危険性が非常に高いとされている。また、Ⅱ型以外のものも、治療しない場合の不良眼は53.7パーセント(46.3パーセントは自然治癒)であるが、治療した場合でも27.4パーセントが不良眼で無効であることを示しており、このことは、失明率を26.3パーセント低下させるが、冷凍凝固治療による有効率は四九パーセントにとどまることを示すものである。したがって、高度の蓋然性をもって失明を防止できる結果とは言い難い。

4 予備的請求原因に対する認否反論

(一) 第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの予備的請求原因(一)、(二)は争う。

(二) 損害賠償責任の前提として医師が負担する注意義務の基準が、診療当時におけるいわゆる臨床医学の実践における医療水準であることは確定した判例であり、医師は医療水準に適合し、あるいは医療水準を基準とする治療義務、(発症)予防義務、説明義務、転医(勧告)義務、自己研鑽義務などの諸義務を尽くせば、注意義務を尽くしたとして免責される。いまだ医療水準に達していない治療法について、医師が患者にこれを説明したり、その受療機会を与える必要はないのみならず、このような療法を施した場合は、却って過剰診療として賠償責任の対象ともなる。

(三) 誠実医療義務違反を理由とする損害賠償請求について

第一審原告らが主張する誠実医療義務は、法律上の責任を問うための注意義務の内容として概念が不明確であり、また、医療水準と関係ないものである以上医師が誠実医療義務に違反したとして法律上の責任を問われる余地はない。

(四) 受療機会喪失を理由とする損害賠償請求について

第一審原告らが主張する受療機会喪失による責任も、医療水準と関係ないものである以上、同様これに基づいて医師に法律上の責任が生ずるものではない。

未確立の治療法の受療機会喪失による精神的苦痛そのものを独立の法益として損害賠償の対象とすることは、不法行為責任及び債務不履行責任における因果関係ないし損害の概念を逸脱することとなり、無因果関係論に通じ、あるいは、医師に実質的な無過失責任を認めることとなる。けだし、精神的苦痛に対する損害賠償は、本来、死亡又は失明という法益侵害に基づくものであり、受療機会の喪失そのものは債務不履行の内容を患者側から言い換えたものにすぎず、独立の法益侵害とすることはできないからである。

(第一審被告日本赤十字社)

5 第一審原告健一郎について

(一) 本件当時の臨床医学の実践における医療水準であった四九年度研究班報告に照らし、健一郎の担当医師、看護婦がとった措置に以下のとおり過誤はなかった。

(1) 健一郎に実施した眼底検査の当否について

(a) 健一郎に対する眼底検査は、赤木医師が昭和五一年一二月二四日、昭和五二年一月七日、同月二一日、同年二月四日にこれを行い、竹内医師が同月八日、同月一八日にこれを行った。

途中実施者が赤木医師から竹内医師に交替しているが、健一郎の眼底の未熟性が強く発症後治療を要する程度に進行するとの赤木医師の判断は竹内医師に伝えられており、眼底検査の間隔を一週間ごとにすべきであるとの赤木医師の意見も、口頭による説明及びカルテの記載を通じて竹内医師に伝えられていたのであって、相互の連係に欠けるところはなく、その引継ぎに何ら手落ちはない。研究班報告は、未熟児網膜症発症後三期に入った後に同一検者による経過観察を求めているにすぎず、健一郎の本症発症(二月一八日)前に眼底検査の実施者が交替した点に何らの過誤もない。

(b) また、検査の間隔につき、研究班報告は生後満三週以降は週一回としているが、健一郎に対し、生後一か月半以降概ね右基準どおり眼底検査が実施されている。

(2) 冷凍凝固実施時期決定の当否について

(a) 竹内医師は、二月一八日の眼底検査の結果、健一郎に未熟児網膜症の発症を認め、五日後の同月二三日に冷凍凝固を実施することを決定した。ただし、同日の眼底検査により自然寛解の傾向が認められれば冷凍凝固の実施を見合わせることも考えていた。

(b) 竹内医師が同月一八日に得た眼底所見では、両眼耳側に境界線が発生し、右眼の方が進行して硝子体への欠陥滲出が僅かながら認められ、後極部に血管新生、迂曲怒張はなかった。

したがって、研究班報告の示す臨床経過に照らすと、健一郎にⅠ型未熟児網膜症が発症し、二期から三期に移行する段階と竹内医師が診断したことは正当である。また、研究班報告は、Ⅰ型未熟児網膜症は緩徐な経過をとり、三期において更に進行の徴候が見られる時に治療が問題となるとしているのであるから、竹内医師が二月一八日の時点で同月二三日に冷凍凝固を実施することを決定し、最終的には同日の眼底検査の結果により最終決定するとの判断は、研究班報告の基準に合致し、当時の医療水準としては適切であった。

(c) 仮に、現在の知見によれば、二月一八日が適期であったとしても、同日当時健一郎の症状は二期から三期に入りかけていた時期であり、研究班報告に従っても、当日をもって治療適期とする判断は不可能であり、当時の医療水準においては、五日後に冷凍凝固を実施することを決定したのは相当であった。

この点につき、当審における馬嶋鑑定は、健一郎の未熟児網膜症の病形につき「Ⅰ型で、ある時期から急速に進行したもの」とするのが最も妥当であり、「Ⅰ型に近いⅡ型、即ち中間型も否定できない」とし、治療適期につき二月一八日が治療に踏みきる時期であったかもしれないとする。

ところで、研究班報告には、「Ⅰ型で、ある時期から急速に進行したもの」の存在について記述がなく、当然ながらその治療指針の記述もない。また、研究班報告には、混合型について記述があるものの極めて少数としているうえ、混合型の病像は示さず、その表現からもⅠ型、Ⅱ型両方の病像が混合したものとしか受け止めることができない。当時の臨床医としては、Ⅰ型であれば進行が緩徐であるとの研究班報告に従い、三期に入った段階で治療の要否、時期を判断する以外になかった。竹内医師は、当時、「Ⅰ型で、ある時期から急速に進行したもの」の存在ないし中間型の存在を知らなかったのであるから、二月二三日に冷凍凝固を実施することを決定したことは、当時の医療水準にあっては、同月一八日の診断に基づいた判断として適切であったとする外ない。研究班報告は、Ⅰ型の治療時期について何ら例外を認めず、三期において更に進行の徴候が見られる時に治療が問題となるとしており、それを治療の指針としていた竹内医師を含む当時の眼科医に、同月一八日の時点で直ちに治療に踏み切ることを期待するのは不可能であった。

(3) 発症を認めた後冷凍凝固予定の日までの経過観察について

既に二月一八日の時点で同月二三日に冷凍凝固を実施することを予定したため、竹内医師は、この間の経過観察の必要はないと判断したのであり、Ⅰ型未熟児網膜症の進行が緩徐であるとの当時の医療水準からすれば相当であった。

(4) 発症を認めた後冷凍凝固予定の日までの五日間眼底検査を行わなかった点について

(a) 研究班報告は、発症を認めたら必要に応じ、隔日又は毎日眼底検査を施行し経過を観察するとしているが、その「必要」とは、本症が自然寛解の確率が高いことから治療の要否の決定が発症をみただけでは決定できない場合をいうものと解される。

(b) 健一郎の場合、眼底の未熟性が強く、呼吸障害があり、酸素投与がなされていたことから、本症の発症をみた場合治療を必要とするとの判断が既になされていた。すなわち、赤木医師は二月四日の眼底検査により「重症です」とカルテに記載し、竹内医師は同月八日の眼底検査により「OP必要です」とカルテに記載して、いずれも本症の発症を認める前から発症した場合には凝固治療の実施を予定しなくてはならないと判断していた。したがって、当時の医療水準にたてば、隔日又は毎日眼底検査を行う必要はなく、発症を認めた時点で凝固実施を予定した措置は研究班報告に反するものではなかった。結果からみても、発症したら治療が必要であるとの判断は正当であったのであり、したがって、また、病勢の把握も適切になされていた。

(5) 健一郎が二月二三日呼吸停止をきたしたことについて

健一郎が同日冷凍凝固実施の準備中に呼吸停止をきたしたことについて、次のとおり、担当医師、看護婦に過失はなかった。したがって、健一郎は同日の段階で未だ適期を逸していなかったが、同日冷凍凝固を行えなかったことがこのように不可抗力による以上、健一郎の失明について、第一審被告日本赤十字社に責任はない。

(a) 健一郎は、二月二三日、当時予定の冷凍凝固を行うため準備中、呼吸停止をきたし、救急措置として蘇生器を使用し、強心剤、呼吸促進剤が投与された。ところが、自発呼吸が回復した後も全身状態が悪いため、久富医師の判断により当日の冷凍凝固は取り止めとなり、三月二日に延期された。

健一郎の右呼吸停止の原因は、超未熟児として在胎二六週で出生した健一郎の全身状態が治療準備の刺激で悪化し、呼吸中枢の不調をきたしたことによるものである。

即ち、第一に、当日健一郎に対し、散瞳剤として午前八時にアトロピン軟膏、同一〇時にミドリンP点眼剤が投与された。この薬剤投与は、冷凍凝固術に不可欠の措置であるが、いずれも副交感神経抑制剤であるため、患児の自律神経系に何らかの影響を与えた。第二に、術前に顔面を清拭したが、顔面に刺激を与えるとともに、保育器を一部開放したことによる温室の変化などが、無呼吸発作の誘因となった。

なお、健一郎は、それまで頻回に無呼吸発作を繰り返していた。

(b) 第一審原告後藤らは、右呼吸停止の原因につき、カテーテル抜去の際にミルク滓が気管に入ったためであると主張するが、次の理由により失当である。即ち、第一に、カテーテルが抜去されたのは当日午前一一時三〇分頃であるのに対し、健一郎の呼吸停止は、同日午後〇時頃顔面清拭中に発生したのであるから、カテーテル抜去の際にミルク滓が気管に入って詰まったのであれば、この間呼吸停止をきたさないでいたことは時間的にありえない。第二に、カテーテルは、内径一ミリメートル程度のビニール製中空の管で患児の胃上部に入るものであるから、ミルク滓がその内部に入ったり、外部に付着して患児の気管に入る確率はほとんどない。また、カテーテルを抜去する際には、注入側のミルクビンからの管との接合部分を外したうえ、蓋をすることとされており、この蓋をすれば仮に管内にミルク滓が入っていたとしてもそれが外部に出ることはありえず、この蓋をすることを忘れる可能性も極めて少ない。

なお、健一郎が無呼吸発作を起こした際に、看護婦が行った気管吸引は、咽頭、喉頭に溜まった分泌物、唾液を気管カテーテルで吸引したものであり、患児の気管内に気管内挿入管を挿入して気管内分泌物を吸引する気管内吸引とは異なる。当日の気管吸引によって吸引されたものの中には、ミルク滓は存在せず、淡黄色粘調液中等量であった(ミルク滓は、無呼吸発作が生じた後になされた胃吸引により吸引された。)。

気管吸引は、当然口腔内にあるミルク滓も吸引することとなるが、口腔内にミルク滓があるのは当然のことで、そのことは無呼吸発作の原因とはならない。

(6) 全身状態悪化により冷凍凝固実施予定を三月二日に延期したことについて

(a) 未熟児の治療において、救命と未熟児網膜症に対する治療のいずれを採るかとの場面に直面した場合、救命を採るのは当然である。本件の場合、患児に無呼吸発作が生じて全身状態が悪化したため、小児科主治医の意見をいれて、凝固実施日を延期したのであり、やむを得ない措置であった。

(b) 竹内医師は、眼科医として早期に手術を実施したかったのであり、当初二月二五日を延期後の手術予定日としたが、小児科医から健一郎の全身状態が一週間後でなければ手術に耐えられないとの指示を受けて、三月二日に改めて延期したのであり、患児の救命に責任を持つ小児科医の意見を優先させたことは当然の措置であった。

(c) また、同日までの治療を放棄したのではなく、病勢を観察し、凝固術が必要となれば、予定を繰り上げて実施することを当然に予定していた。現に、健一郎の未熟児網膜症は予想を超えた急激な進行を見たため、予定日より早く二月二五日に凝固術が実施されている。

(二) 過失、因果関係の不存在

(1) 過失の不存在

仮に、客観的には二月一八日が適期であり、したがって、担当医師において健一郎に対する凝固治療の適期を逸した過誤があったとしても、同日時点で健一郎の本症は二期から三期に入りかけであったのであるから、研究班報告に示された当時の医療水準よりすれば、同日時点で凝固治療を適期とするとの判断は不可能であったのであり、担当医師には過失がなかった。

(2) 因果関係の不存在

(a) 健一郎の本症は、新分類にいう中間型であり、Ⅱ型の特性を多く具える中間型に属するもので、仮に適期に冷凍凝固を実施したとしても、失明した蓋然性が高かった。したがって、適期に凝固を実施したとしても治療効果があがった確率は低く、健一郎の担当医師がとった措置と健一郎の失明との間に因果関係がない。

(b) この点につき、馬嶋鑑定は、二月一八日の時点で、最高レベルの経験、技術、学識を有する馬嶋教授自ら治療を施したとしても、健一郎の失明を救うことができた確率は五〇パーセント以下であるとしており、竹内医師を含む一般の眼科医が治療にあたった場合には、その確率は更に低いものであった。したがって、二月一八日が治療適期であって当日凝固治療が実施されていたとしても、健一郎が失明を免れた可能性は低く、健一郎の失明と治療適期を逸したこととの間に相当因果関係はなかった。

第三  証拠

本件記録中の原審及び当審における証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一当裁判所も、第一審原告後藤らの第一審被告日本赤十字社に対する請求は原判決が認容した限度において正当としていずれも認容し、第一審原告後藤らの第一審被告日本赤十字社に対するその余の請求及び第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの第一審被告らに対する請求は失当としていずれも棄却すべきものと判断する。その理由は、次のとおり付加、訂正、削除するほか、原判決の理由説示中第一審原告らと第一審被告ら関係部分と同一であるから、これを引用する。

1  C10裏末行の「同第三号証の一八」を「同第一八号証」と改める。

2  C13表一三行目から同一四行目にかけての「であったが」を「であり在胎週数三三週未満の未熟児に対しては酸素のルーチン投与を行うというものであった(右の方法は、同医師が京都大学医局に在籍中に指導教授から教わるなどして修得した方法であった。)が、」と改める。

3  C13裏四行目の「その間、」の次に「破水によって生ずる子宮収縮により胎盤から胎児へ行く血液が減少して胎児が」を加え、同一二行目の「境界線を認め、」を「境界線を認めて、その境界線に沿ってわずかながら滲出があり、また、後極部の血管が蛇行怒張しており、」と改める。

4  C16表一三行目から同一四行目にかけての「鼻側」を「耳側」と改める。

5  C43裏七行目及び同九行目の各「根来良夫」の次にいずれも「(第二回)」を加える。

6  C44裏一一行目の「三二度」を「三四度」と改める。

7  C45表八行目の「窮迫症」を「窮迫症候群」と、同一一行目の「グラム」を「ミリグラム」とそれぞれ改める。

8  C47裏二行目から同三行目にかけての「同日」を「同月一〇日」と、同行の「退院時」を「転院時」とそれぞれ改める。

9  C48表六行目の「罹患し、」を「罹患して、両眼ともオーエンス三期から四期にあり、」と改める。

10  C48裏五行目の「小泉、初田両医師協議の結果、」を「小泉医師は、滲出機転が強く光凝固を施行しても効果があがらないと予想してまず酸素療法及びステロイド療法を実施して滲出機転を抑制した後、光凝固を行うべきであるとの判断をした。そこで、小泉医師は、初田医師と協議したうえ、」と改める。

11  C49表一二行目の「同医師」を「初田医師」と改める。

12  C51表二行目の「隆起物」を「隆起部」と改め、同一一行目の「から、」の次に「経過観察のうえ」を加える。

13  C72表一三行目の「二九日目」を「三二日目」と改める。

14  C76表三行目の「乳腫状」を「浮腫状」と改める。

15  C77表二行目の「神経 増殖」を「神経膠増殖」と改める。

16  C78裏一〇行目の「よろず」を「よろづ」と改める。

17  C79表五行目の「述べている」の次に「(なお、成立に争いのない甲第六一号証の二によれば、永田医師が、同日同原告の眼底所見に基づいて作成し、両親に渡して京大病院に持参させた回答箋(甲第六一号証の二は、その写である。)には、同原告が受けた右光凝固の時期、部位等についての批判的意見が記載されていることが認められる。しかしながら、後記二、2、(三)、(2)に認定のとおり、永田医師は、その後本多医師から聞いた同原告の症状の経過等に基づいて、見解を右記載のとおりに改めたものである。)」を加える。

18  C85表末行の「証人」の前に「原審」を加える。

19  C85裏二行目の「根来良夫」から同三行目の「各証言及び」までを「根来良夫(第一回)及び当審証人馬嶋昭生の各証言、当審における鑑定人馬嶋昭生の鑑定の結果並びに」と改める。

20  C87表七行目の「久富医師」の前に「小児科主治医」を加える。

21  C88表三行目の「まで」の次に「ほぼ」を、同一〇行目末尾の次に「その後、顔色に変化なく、呼吸状態の悪化は認められなかった。」をそれぞれ加える。

22  C88裏五行目末尾の次に「この酸素投与も同月一二日から再び中止されたが、健一郎の状態に著変はなかった。」を加え、同七行目の「正午頃」から同九行目末尾までを「午前一〇時に散瞳剤の投与が開始され、健一郎の鼻腔を通して設置された栄養注入用カテーテルにより、正午前に健一郎にミルクが与えられた。その後、凝固手術の術前措置として担当看護婦が、右カテーテルを抜去した後、健一郎の顔面を清拭していたところ、正午頃になって、健一郎が」と、同一〇行目から同一一行目にかけての「となる。」を「となった(健一郎がこのように突然呼吸停止に陥った原因は明らかでないが、看護婦によって右カテーテルが抜去された際ミルク滓が健一郎の気管に入ったことにより生じた可能性も否定できない。)」と、同一二行目の「テラプチ」を「テラプチク」とそれぞれ改める。

23  C89表一二行目の「五月」を「四月」と、同一三行目の「児の眼底検査は、」からC89裏初行末尾までを「未熟児全員について眼底検査が行われるようになり、その後、同年五月からは同病院嘱託医の赤木医師が毎週金曜日に来院して右眼底検査を実施し、凝固治療等の治療を要する場合には常勤の医師がこれを行うこととし、また、未熟児に対して眼底検査を開始する時期について、超未熟児及び極小未熟児については本症発症後重症となることが多いため生後二週間までとし、それ以外は生後三ないし四週間目までとするとの態勢がとられていた。」とそれぞれ改める。

24  C89裏初行末尾の次に「第一日赤病院眼科には、昭和五一年七月以降、竹内萬寧部長、根来良夫副部長、岩破医師の三名の眼科医が在籍していたところ、第一日赤病院眼科において診療に携わる医師らは、赤木医師を含め、昭和五〇年八月研究班報告が公表された後間もなくこれを読んでその内容を全員了知していた。」を、同二行目の「初診」の次に「、」をそれぞれ加える。

25  C90表一三行目の「境界」の前に「無血管帯との」を加え、同末行からC90裏初行にかけての「記載し、一週間後の検査を」を「記載したうえ、健一郎に未熟児網膜症は発症していないものの、後極部血管の迂曲怒張のような症状が発現する可能性があったため眼底検査の実施間隔をそれまでの二週間に一回から一週間に一回に改めることとし、その旨を」と改める。

26  C90裏初行の「右記載について、」を「右記載は、」と、同三行目の「あったという。」を「あった(当審証人馬嶋昭生も、右眼底所見からすると、発症後重症になる可能性が強いものと判断する旨証言する。)。」と、同四行目の「同医師は、」から同五行目末尾までを「赤木医師は、翌週の診察日(金曜日)が祝日のため、また翌々週の診察日(右同)が学会出張のためそれぞれ休診となるので、竹内医師に生下時体重が低い児がいるとして健一郎の症状を直接口頭で説明し、休診の間の診察を依頼しておいた。」とそれぞれ改め、同八行目の「竹内医師は、」の次に「右のとおり赤木医師から健一郎の診察を依頼されていたため、同日一度健一郎の眼底検査をしておくこととした。」を加え、同一三行目の「この点につき、」からC91表初行末尾までを「右記載は、竹内医師において、同児が低体重児であるほか無血管帯が広く眼底の未熟性が明らかであることから、健一郎に本症が発症する可能性が高く、また、発症した場合には自然治癒の可能性はなく、凝固治療の施行がいずれ必要となると判断したことによるものであった。」と改める。

27  C91表四行目冒頭から同八、九行目の「決定した。」までを次のとおり改める。

「竹内医師は、同日健一郎の眼底検査を行ったところ、両眼に広汎な無血管帯と境界線形成を認めたほか、特に右眼には硝子体への新生血管の発芽を認めた。これに対し、竹内医師は、境界線の形成があり、後極部の血管に蛇行、怒張が認められないことから、健一郎にⅠ型の未熟児網膜症が発症し、右眼は三期の始め、左眼は二期の終わりと判断した(竹内医師は前回の眼底検査以降研究班報告が定める週一回の眼底検査を実施しておらず、本症が同日までのどの時点で発症したか不明であるが、同日の眼底検査の結果認められた健一郎の眼底症状よりすると、同月八日の眼底検査以降わずか一〇日後にして健一郎の本症は既に三期に入っていてその進行が早いというべきであり、竹内医師にもその旨の認識があった。)。竹内医師は、健一郎のこれまでの経過に鑑み、自然治癒は期待しがたいことから、小児科主治医と相談のうえ、同月二三日に冷凍凝固を施行することを決定した。同月一八日の時点において、竹内医師としては、健一郎の本症がⅠ型であり病勢が急変する徴候もないので早急に手術を要するとは考えず、五日後の同月二三日まで充分待てると判断したのであるが、他方小児科医の要請があっても凝固治療を一週間も延ばすことは「かなわん」、「冒険である」とも考えていた(竹内医師は、当時未熟児網膜症に対し冷凍凝固術を三〇例程実施した経験を有する一方、光凝固法を実施した経験はなかった。しかし、同医師は、冷凍凝固は光凝固と異なり多少遅れても大丈夫であるとの見解を念頭においていた。なお、第一日赤病院ではそれまでにⅡ型の症例はなく、竹内医師もⅡ型を経験したことはなかった。)。」

28  C91表九行目末尾の次に改行して次のとおり加える。

「(7) 同月一九日から同月二二日まで

竹内医師は、前記のとおり健一郎の症状が急変することがありうるとは考えていなかったため、同月一九日から手術予定日前日の同月二二日までの間、毎日又は隔日の眼底の頻回検査を必要とは考えず、これを実施しなかった。」

29  C91表一〇行目の「(7)」を「(8)」と、同一三行目の「決定したが、」からC91裏初行末尾までを「決定した。ところが、同月二三日午後五時頃、小児科久富医師は、健一郎の全身症状から考えて手術を来週(三月二日以降)に延期できないかと竹内医師に相談した。竹内医師としては、同月二三日手落ちを防ぐため、同月一八日の検査で認められた硝子体への発芽部分だけでも焼いておきたいと考えていたが、小児科からの再度の延期の要請があったため、同医師は前記のとおり冷凍凝固は多少遅れても大丈夫であるとの見解が念頭にあったこともあって凝固手術の再度の延期も仕方ないと考えてこれを了解し、結局、凝固手術は三月二日に延期された。しかしながら、健一郎の後記二月二五日の眼底症状からすると、健一郎の本症の進行は早いものであり、同月二三日に予定どおり冷凍凝固を施行していたとしても、既に適期を逸し本症の進行を阻止できない段階にまで至っていた。」とそれぞれ改める。

30  C91裏二行目の「(8)」を「(9)」と、同七行目から同八行目にかけての「この症状から」を「既に一部網膜剥離も生じていることから大変難しい事態であるが、ともかく」と、同一一行目の「急を要するとして、」を「かなり適期を逸してしまったが、」と、同一三行目の「(9)」を「(10)」とそれぞれ改める。

31  C92表二行目の「(10)」を「(11)」と、同末行の「(11)」を「(12)」とそれぞれ改める。

32  C92裏四行目の「(12)」を「(13)」と同一〇行目の「(13)」を「(14)」とそれぞれ改める。

33  C93表初行の「(14)」を「(15)」と、同五行目の「(15)」を「(16)」と、同七行目の「(16)」を「(17)」と、同一〇行目の「(17)」を「(18)」とそれぞれ改める。

34  C94表一三行目の「原戊」を「戊」と改める。

35  C95表二行目の「護持」を「保持」と、同一二行目、同裏六行目の各「肺硝子膜症」をいずれも「肺硝子様膜症」とそれぞれ改める。

36  C100表九行目の「原辛」を「辛」と改め、同一一行目の「第七二号証、」の次に「同第八一号証、」を加える。

37  C100裏三行目の「証人植村恭夫」から同四行目の「各証言」までを「原審証人植村恭夫、同永田誠及び当審証人馬嶋昭生の各証言」と改める。

38  C101表一〇行目の「ヘイジ・メディア」を「ヘイジイ・メディア」と改める。

39  C102裏一二行目の「提出された。」を「提出され、その後、右報告は同年八月「日本の眼科四六巻八号」に掲載されて一般に公表された。更に、この四九年度研究班報告で示された分類につき、昭和五七年になって、四九年度研究班の構成員であった植村恭夫教授らによって、一部改正が加えられた。」と、同行の「分類と」を「「分類、」と、同一三行目の「分類による」を「旧分類及び改正後の新分類による」とそれぞれ改める。

40  C103裏八行目の「変化がないが、」を「変化がないか、」と改める。

41  C104表一三行目の「多い。」を「ある。」と改める。

42  C104裏一二行目の「中間に位置する型」を「混合型ともいえる型」と改める。

43  C105表一三行目の「とりかこまれ」を「とりこまれ」と改める。

44  C105裏一〇行目の「論文」の次に「(日本眼科学会雑誌八〇巻一号「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」)」を加える。

45  C106表二行目の「四象眼」を「四象限」と、同一〇行目の「乳頭経」を「乳頭径」とそれぞれ改め、同末行末尾の次に改行して次のとおり加える。

「(三) 四九年度研究班分類の改正

四九年度研究班報告に示された旧分類においても、そのⅠ型三期につき更に前期、中期、後期に分ける意見があったが、意見の統一を見ず、報告書にその旨注記されるにとどまった。ところが、その後、本症に対する我が国及び欧米における研究が進展したことに伴い、昭和五七年になって、旧分類が改正されるに至った(「日本眼科紀要三四巻九号」)。その概要は、活動期、瘢痕期共に四段階であったものを五段階とし、活動期三期、瘢痕期二度をそれぞれ三分類に細分化したものであるが、本件に関係する部分の改正点は、次のとおりである。

(1)  Ⅰ型

(a) 一期(網膜内血管新生期)

「周辺ことに耳側周辺部に、発育が完成していない網膜血管先端部の分岐過多、異常な怒張、蛇行、走行異常などが出現し、それにより周辺部には明らかな無血管領域が存在する。後極部には変化が認められない。」

(b) 二期(境界線形成期)

旧分類では、「後極部には、血管の迂曲怒張を認める。」とあったが、新分類では、「後極部には、血管の蛇行怒張を認めることがある。」と改正された。

(c) 三期(硝子体内滲出と増殖期)

新分類では、三期を、初期、中期、後期の三段階に細分類され、「初期はごくわずかな硝子体への滲出、発芽を認めた場合、中期は明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた場合、後期は中期の所見に、、牽引性変化が加わった場合とする。」と定義された。

(2)  Ⅱ型

「赤道部より後極側の領域で、全周にわたり未発達の血管先端領域に、異常吻合および走行異常、出血などがみられ、それより周辺は広い無血管領域が存在する。網膜血管は、血管帯の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的となる。進行とともに、網膜血管の蛇行怒張はますます著明になり、出血、滲出性変化が強く起こり、Ⅰ型のごとき緩徐な段階的経過をとることなく、急速に網膜剥離へと進む。」

(3)  中間型

旧分類では混合型とされたものにつき、新分類では中間型とするのが正しいとされ、右Ⅰ型、Ⅱ型の分類のほかに、「きわめて少数ではあるが、Ⅰ、Ⅱ型の中間型がある。」と改正された。

なお、その後、昭和五九年に国際分類が作成されたが、作成までの間に、我が国の研究者が示したⅡ型の眼底写真に対し外国の研究者から境界線が存在すると指摘され、結局、我が国の研究者が主張したⅡ型は採用されなかった。」

46  C108表一二行目の「ヘイジ・メディア」を「ヘイジイ・メディア」と改める。

47  C109裏五行目の「パツツが」の次に「未熟児を高酸素群と低酸素群に分けて未熟児網膜症の発症率の差異を調べる比較対照実験(コントロールスタディ)を行ったうえで、」を加え、同一〇行目の「実験調査」を「比較対照実験」と、同末行からC110表初行にかけての「ジレストン」を「アシュトン」とそれぞれ改める。

48  C110表初行の「一九五二年」を「一九五三年」と、同行の「病変と関係」を「病変との関係」とそれぞれ改める。

49  C110裏三行目から同四行目にかけての「環境酸素」を「環境酸素濃度」と改める。

50  C113表一三行目から同末行にかけての「第一六一」を「第一六二」と改める。

51  C113裏五行目の「第一一〇号証、」の次に「同第一一五号証、」を、同六行目の「第一七二」の次に「、第一七三」を、同七行目の「第二三三号証、」の次に「同第二三七号証の一、二」をそれぞれ加え、同一一行目の「甲第一八ないし第二四号証」を「甲第一八、第一九号証、同第二一ないし第二四号証」と改め、同一三行目の「第一五七号証、」の次に「同第一六一号証、」を加え、同末行からC114表初行にかけての「同第一一五号証、同第一二三号証、」を削る。

52  C114表初行の「同第二三七号証の一、」から同二行目の「同第二四九号証の一、二、」までを「同第一四〇号証、同第二三九号証、同第二四七号証の一、二」と改める。

53  C114裏一三行目の「その結果」の次に「それまで研究者により発表されていたところに従い、酸素濃度を四〇パーセント以下とするとの認識が小児科医に普及し、」を加える。

54  C116裏初行の「ガードナは、」の次に「一九六二年(昭和三七年)」を加える。

55  C117表八行目の「定説になっていた。」を「一般的であり、一般臨床医の認識もほぼ同様のものであった(例えば、多くの小児科医が参考にした東大小児科治療指針(昭和四〇年版)は、「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても、全て酸素を供給すべきか否かに就ては議論があるが、われわれは現在のところ、ルーチィンとして酸素の供給を行っている。」、「水晶体後部線維増殖症を予防するため、酸素濃度は六〇パーセント以下とし、通常四〇パーセント程度に止める。また同一の理由で、酸素の供給を停止する際には、数日間にわたって徐々に環境酸素濃度を低下せしめる。」としていた。)。」と改める。

56  C119表一二行目の「ヘイジ・メディア」を「ヘイジイ・メディア」と改める。

57  C120裏四行目の「指標とする」の次に「チアノーゼの客観的判定が困難であるほか、」を加える。

58  C121裏初行の「甲第二〇ないし第三二号証、」を「甲第二〇ないし第二六号証、同第二八号証、同第三一号証、」と改め、同二行目の「第一二九号証」の次に「同第一三四号証、」を加え、同三行目の「一五六号証」を「一五六、一五七号証」と改め、同行の「第二三号証、」の次に「同第二八号証」を、同四行目の「第三六号証、」の次に「同第三八号証、第四五号証、」を、同五行目の「第七九号証、」の次に「同第八一号証、」を、同六行目末尾の次に「同第一二九号証、」をそれぞれ加え、同七行目の「同第二一〇号証、」を「同第二〇九、第二一〇号証」と、同八行目の「第二三一」を「第二三〇」とそれぞれ改め、同第一一行目の「第二四三号証、」の次に「同第二四七号証の一、二、」を、同第一二行目の「第二五二号証、」の次に「同第二五三号証の一ないし三、同第二五五号証の一、二」を、同一三行目の「甲」の次に、「第二七号証、同第二九、第三〇号証、同第三二号証、同」をそれぞれ加え、同行の「同第四五号証、」を削り、同末行の「第一八」を「第八二」と、同行の「同第一三〇ないし第一三六号証」を、「同第一三〇ないし第一三三号証、同第一三五、第一三六号証」とそれぞれ改める。

59  C122表初行の「同第一五七号証、」を「同第一六九号証の一、同第一七一号証、」と改め、同二行目の「同第二八号証、」、同行から同三行目にかけての「同第三八号証、」をそれぞれ削り、同行の「第八六」を「第八五」と改め、同五行目の「同第一二九号証」、同七行目から同八行目にかけての「同第二五三号証の一ないし三、同第二五五号証の一、二、」をそれぞれ削り、同八行目の「証人植村恭夫」から同九行目の「永田誠の各証言」までを「いずれも弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第一六九号証の二、乙第二七〇、第二七一号証、原審証人植村恭夫、同永田誠及び当審証人馬嶋昭生の各証言並びに当審における鑑定人馬嶋昭生の鑑定の結果」と改める。

60  C124裏一〇行目の「凝固破壊するだけに、」を「凝固破壊したうえ瘢痕を残すだけに、」と、同末行からC125表初行にかけての「治養法」を「治療法」とそれぞれ改める。

61  C125表六行目の「二四巻五号」を「二二巻四号」と改め、同行の「次いで」の次に「同年一〇月」を加える。

62  C126裏八行目の「同年九月」を「昭和四六年九月」と改める。

63  C127表六行目冒頭から同裏二行目までを削る。

64  C128表一一行目の「表明している」を「表明し、網膜の器質的変化を来さない治療を検討する必要があるとしている。」と改める。

65  C128裏四行目の「侵襲」の次に「(治療)」を加える。

66  C129表二行目の「床例」を「症例」と改める。

67  C131裏三行目から同四行目にかけての「認められる時点で治療を行うべきであり、」を「見られる時に初めて治療が問題となる。但し三期に入ったのものでも自然治癒する可能性は少なくないので進行の徴候が明らかでない時は治療に慎重であるべきとされ、」と、同一二行目の「無血管帯が」を「無血管領域の」とそれぞれ改める。

68  C132表八行目の「具体的な治療方法等」から同一一行目末尾までを「治療適期の判定、治療方法等に検討の余地が残されているとする。」と改め、同行末尾の次に改行して次のとおり加える。

「また、同報告は、一八〇〇グラム以下の低出生体重児、在胎期間では三四週以前のものを対象として定期的に眼底検査を行うとしたうえ、その具体的頻度につき、生後満三週以降において一週間に一回、三か月以降は隔週または一か月に一回の頻度で六か月まで、発症を認めたら必要に応じ隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察するとしている。」

69  C132裏三行目の「示されたが、」から同五行目末尾までを「示され、更に前記のとおり、昭和五七年になって四九年度研究班分類に改正が加えられた。」と改め、同六行目冒頭からC134表二行目末尾までを削除する。

70  C134表六行目の「東北大学」の前に「永田の光凝固法の報告に接した」を加え、同七行目の「開発、報告された。」を「昭和四五年一月から実施され、昭和四六年に報告された(臨床眼科二五巻八号、日本眼科紀要二二巻一二号)。」と改める。

71  C134表末行末尾の次に改行して次のとおり加える。

「5 凝固治療に対する評価

(一)  その後、昭和五〇年代に入り、未熟児網膜症は自然治癒する傾向の強い疾患であるため、治癒した症例が真に凝固治療により治癒したものであるかどうか客観的、科学的に判断するためには比較対照実験(コントロールスタディ)を経る必要があるとの議論が内外で行われるようになり、また、凝固治療の副作用に対する懸念が論じられるようになった。

(二)  コントロールスタディ

(1) 我が国

(a) 我が国では、馬嶋昭生教授が、Ⅰ型網膜症につき片眼を光凝固してその臨床経過を比較検討した報告を昭和五一年一月に公表した(臨床眼科三〇巻一号「未熟児網膜症に対する片眼凝固例の臨床経過について」)。しかしながら、右研究の症例数は少なく、その後このような実験が我が国で行われることはなかった。

(b) 一方、永田医師の提唱のもとに、我が国の本症を扱う医療機関一二施設一四病院が参加してプロスペクティブスタディが行われ、その結果が昭和六三年四月に公表された(日本眼科学会雑誌九二巻四号「多施設による未熟児網膜症の研究」)。それによると、対象となった体重一五〇〇グラム以下の未熟児六〇〇例に対し本症Ⅰ型二期以上に進行した発症率が合計60.0パーセント(体重一〇〇〇グラム以下では、87.4パーセント)、凝固治療を行った症例の対象児全体に対する割合は合計10.8パーセント(同27.0パーセント)、両眼失明した症例(四例)の対象児全体に対する割合は合計0.7パーセント(同1.9パーセント)で、発症例の1.1パーセントであったとされている(右研究報告につき、当審証人馬嶋昭生は、右参加施設は未熟児網膜症に対する光凝固法等の治療を自院において行うことができ、しかも、一般的水準を上回る施設を厳選して行われた実験結果であり、同証人の知見では、凝固治療を受けた極小未熟児全体の失明率は、全身状態に問題がなく適期に適切な光凝固が行われたときにおいて一〇パーセント弱であり、超未熟児のみをとれば右失明率は増加すると証言している。)。

(2) 米国

(a) 米国では、タスマンが、コントロールスタディを行った結果を、昭和六〇年、同六一年に公表したが、第一回報告では統計的な有意性は認められないとしたのに対し、第二回報告では有意性ありとして一致せず、また、この実験に対し症例数が少ないとの反論もなされた。

(b) その後、最近になって、米国で冷凍凝固法対照実験共同グループが結成され、冷凍凝固法の評価について決着をつけるため大規模な片眼凝固のコントロールスタディが行われた。

その結果、同グループは、まず、一九八八年(昭和六三年)四月に一七二名の乳児を対象とした三か月後の実験結果を公表した(アーカイブス・オブ・オフサルモロジー一〇六巻)。それによると、非治療眼に対する不良眼の発生率が43.0パーセントであるのに対し、治療眼に対する不良眼の発生率が21.8パーセントであったとし、「このデータは、不良結果のリスクを約二分の一(49.3パーセント)に減少せしめるという冷凍凝固の有効性を裏付けている。」としている。

次いで、同グループは、一九九〇年(平成二年)一〇月に一年後の実験結果を公表した(アーカイブス・オブ・オフサルモロジー一〇八巻)。その結果は、次のとおりであった。

イ ゾーンⅠに発症する未熟児網膜症(我が国の分類の典型的なⅡ型)

治療眼 一六

(不良眼87.5パーセント)

無治療眼 一六

(不良眼93.8パーセント)

ロ ゾーンⅡに発症する未熟児網膜症

治療眼 一二四

(不良眼27.4パーセント)

無治療眼 一二一

(不良眼53.7パーセント)

以上の結果に基づき、同報告は、両眼に本症がある場合には、少なくとも片眼凝固を必要とする、ゾーンⅠに発症する本症の場合、冷凍凝固の有無にかかわらず失明におわる危険性が高いとしている。

右報告によると、Ⅰ型網膜症については冷凍凝固により失明率が四九パーセント減少することとなるところ、この実験に対する我が国医学界の定まった評価は未だないものの、当審証人馬嶋昭生は、冷凍凝固に限界はあるが、右実験により冷凍凝固の有効性が認められたと証言している。

(三)  光凝固法及び冷凍凝固法に対する現時点での評価

未熟児に対する酸素管理、全身管理が向上したため、凝固治療の施行を要する未熟児網膜症の発症が減少しつつあるものの、他方、超未熟児でも相当数救命して成育しうるようになったことにより、重篤な症状を呈する未熟児網膜症も依然発生している。これに対し、未熟児網膜症に対する凝固治療の有効性が完全に解明された訳ではなく、むしろ、その有効性を否定的に見る研究者も存するが、未熟児網膜症に対する他の有効な治療法が存しない現状において、光凝固法及び冷凍凝固法は、医療の現場で有用な治療方法として引き続き現在も行われている。

72  C149裏六行目冒頭から同C152表三行目末尾までを次のとおり改める。

「前記第一、二、13に認定の第一審原告健一郎の症状の経過等に基づき、竹内医師の過失の有無につき判断する。

前記第二、六、3、(二)に認定の事実及び前掲乙第二号証によれば、研究班報告は、「Ⅰ型未熟児網膜症においてはその臨床経過が比較的緩徐であり、発症より段階的に進行する状態を検眼鏡的に追跡確認する時間的余裕がある」とし、三期に入った後も自然治癒する可能性は少なくないとして進行の徴候が明らかでないときは治療に慎重であるべきであるとして過剰な凝固治療の実施に対し慎重な配慮を求める一方、「自然治癒傾向を示さない少数の重症例のみに選択的に治療を施行すべきである」としたうえ、具体的には三期において更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となるとし、その時期の進行傾向の確認には同一検者による規則的な経過観察が必要であるとしていること、また、定期的眼底検査との関係では、生後三週以降三か月までの間は一週間に一回眼底検査を施行する、発症を認めたら必要に応じ隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察するとしていることが認められ、右認定に反する証拠はない。

そこで、検討するに、前記第一、二、13、(四)、(5)に認定のとおり、健一郎(昭和五一年一二月一一日出生)が生下時体重九一〇グラムの超未熟児であり眼底検査においても未熟性の強い眼底状態を呈していたことから、竹内医師は、健一郎に本症が発症する可能性が高く、また、発症した場合には自然治癒傾向を示す可能性はなく凝固治療の施行がいずれ必要となるとの判断を既に発症前から下していたのであり、しかも、健一郎に本症Ⅰ型の発症(当審における馬嶋鑑定は、Ⅰ型とするのが最も妥当とする一方、「中間型も否定できない」とするが、健一郎の本症が中間型であったことを認めるに足りる的確な証拠はない。)を認めた昭和五二年二月一八日(生後七〇日目)の時点において、前回の眼底検査以降わずか一〇日後にして健一郎の本症が既に活動期三期に入っていてその進行が早い状況にあったことを知りえたのであるから(竹内医師は、この間に研究班報告が定める週一回の眼底検査を実施しておらず、前回検査以降同日までの間のどの時点で本症が発症したかは不明な状況にあったのであるから、健一郎の本症の進行傾向をより一層慎重に観察すべきであったというべきである。)、同日以降、健一郎の本症の進行傾向を観察するため、研究班報告が本症発症後の場合について定めるとおり、隔日又は毎日の間隔で健一郎の眼底につき頻回検査を実施して時期を失せず適切な治療を施し、もって、失明等の危険の発生を未然に防止すべき注意義務があったというべきである、ところが、竹内医師は、同日、五日後の同月二三日に冷凍凝固の施行を予定したとのみで、右手術予定日までの間右頻回検査の必要を感じずこれを実施しなかったため健一郎の本症の進行を把握するに至らなかったものであるところ、前記第一、二、13、(四)に認定の事実経過からすれば、竹内医師が同月一九日以降右頻回検査を実施していれば、健一郎の症状が急速に悪化するのを容易に発見して適期に凝固治療を行うことができたと認められる(その間、健一郎は冷凍凝固を行うについて特に支障となる全身状態ではなかった。現に、健一郎は眼底検査の結果異常が発見された同月二五日に即日冷凍凝固を受けたが、その際全身状態の悪化も生じず手術を終えている。)。したがって、竹内医師には、右頻回検査の実施を怠り、ひいては凝固治療施行の適期を逸した過失があるといわざるをえない。その結果、健一郎の本症の進行は早く、竹内医師が当初凝固手術を予定した同月二三日に健一郎に突然呼吸停止が生じて全身状態が悪化するような事態がなく当日手術を施行していたとしても、既に適期を逸し本症の進行を阻止できない段階にまで至っていたのであり、その後、赤木医師において症状の悪化を認めた同月二五日に健一郎に対し冷凍凝固が急遽施行されたものの、健一郎は両眼とも失明するに至ったのであって、健一郎について適期に冷凍凝固を施行していたのであれば、健一郎は失明せずに済んだ可能性があったと認められる。したがって、竹内医師の過失と健一郎の失明との間には相当因果関係があるというべきである。

以上によれば、竹内医師には眼科医としての注意義務を怠った過失があるところ、竹内医師が第一審被告日本赤十字社の被用者であることは第一審原告後藤らと第一審被告日本赤十字社との間で争いがないから、第一審被告日本赤十字社は、民法七一五条に基づき、第一審原告健一郎、同後藤洋平及び同後藤裕子に対し、同原告らが被った損害を賠償すべき責任がある。」

二第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの予備的請求原因について

1  第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの予備的請求原因(一)及び(二)について判断する。

第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らは、第一審原告昌弘、同弥生、同亜希子の出生当時、未熟児網膜症の治療法としての光凝固法、冷凍凝固法が末だ医療水準に達しておらず、したがって、担当医師が治療責任を負わないとしても、医師と患者との間の医療契約には、当時の医療水準に拠った医療を施すこと以外にも、ち密で真しかつ誠実な医療を尽くすこと、適期に治療を受ける機会を奪ってはならないことも包含されているとしたうえ、医師には、全知識全技術を尽くした誠実な医療を施す義務、本症の患児に適期に凝固法を受けさせる機会を奪ってはならない義務があるから、担当医師は、その不誠実な治療自体につき、または、適期に治療を受けさせる機会を奪ったこと自体につき、これにより患者側に与えた精神的苦痛を慰謝するための賠償をすべき責任があると主張する。しかしながら、医師は、患者との特別の合意がない限り、医療水準を超えた医療行為を前提としたち密で真しかつ誠実な医療を尽くすべき注意義務まで負うものではなく、その違反を理由とする債務不履行責任、不法行為責任を負うことはないと解するのが相当であるところ、本件において、治療についての特別な合意をしたとの主張立証はないから、第一審原告昌弘、同弥生、同亜希子を担当した各医師には、本症に対する有効な治療法の存在を前提とするち密で真しかつ誠実な医療を尽くすべき注意義務はなかったというべきであり、また、第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らがあきらめ切れない心残り等の感情を抱くことがあったとしても、各担当医師に対し、第一審原告昌弘、同弥生、同亜希子に光凝固法等の受療の機会を与えて失明を防止するための医療行為を期待する余地はなかったというほかはない(最高裁判所平成四年六月八日第二小法廷判決・裁判集民事一六五号一一頁参照)。したがって、第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの、各担当医師が誠実な医療を施す義務、本症の患児に適期に凝固法を受けさせる機会を奪ってはならない義務に違反したことを理由とする債務不履行ないし不法行為に基づく損害賠償請求はいずれも理由がないし、また、期待権侵害を理由とする損害賠償請求も理由のないことが明らかである。

2  第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らは、当審における予備的請求原因(二)(2)のとおり、各担当医師には同原告ら主張のとおりの不誠実、杜撰な医療行為があるなどと主張するので、なお、この点につき検討する。

(一)  第一審原告昌宏について

(1) 予備的請求原因(二)(2)(a)イ(研鑽)及びロ(酸素投与)について

(a) 第一審原告昌宏の出生した昭和四九年当時、いまだ酸素投与の方法として確立した基準は形成されていなかったのであり、したがって、小柴医師の同原告に対する酸素管理について注意義務違反があるとはいえず、第一審被告三菱自動車工業株式会社に債務不履行責任及び不法行為責任がないことは前記一(原判決理由第三、二、1)に説示のとおりである(原判決理由第二、一、2及び同第二、五、1に認定の全身管理、酸素管理に関する認定事実に鑑みると、本件全証拠によっても、小柴医師が研鑽を怠ったとはいえない。)。

(b) 第一審原告田村らは、小柴医師は血中酸素濃度を測定して酸素を投与し、また、投与量をウオーリー・アンド・ガードナー法を用いて減少すべきであったと主張するが、第一審原告昌弘出生当時、血中酸素濃度を測定して酸素管理を行うとの方法は一般に採用されておらず、また、ウオーリー・アンド・ガードナー法も酸素管理の方法として精密なものでないことは、前記一(原判決第二、五、1、3及び同第三、二、1)に説示のとおりである。

(c) また、前記一(原判決理由第一、二、3)に認定の同原告の症状の経過に鑑みると、同医師が同原告に採った酸素投与の方法が不誠実な医療行為ということもできない。

(2) 同(二)(2)(a)ハ(低体温)について

前記一(原判決理由第一、二、3)に説示のとおり、第一審原告昌宏が出生後しばらくの間低体温が継続したことが認められる。

しかしながら、前記一(原判決理由第二、一、2(二))に説示のとおり、第一審原告昌弘出生当時、未熟児の低体温に対し、保育器内の温度を上げて体温を上昇させる措置を採るべきであるとの見解は未だ一般化していなかったところである。また、本件全証拠によっても、低体温が持続したことが同原告に本症罹患をもたらしたと認めることはできない。

したがって、小柴医師が、同原告の低体温の持続に対し格別の措置を講じなかったとしても、これをもって不誠実、杜撰な医療行為ということはできない。

(3) 同(二)(2)(a)ニ(診療記録の記載)について

前掲原丁第三号証の一によれば、三菱京都病院における第一審原告昌宏に関するカルテ、看護記録等が比較的簡略に記載されているほか、光凝固実施の日につき誤記等があったことが認められるが、これをもって直ちに不誠実、杜撰な医療行為ということはできない。

(4) 同(二)(2)(a)ホ(眼底検査実施時期)について

三菱京都病院の未熟児に対する眼底検査の実施状況についてみると、原審証人小柴壽彌の証言によれば、同病院は、第一審原告昌弘出生当時、未熟児の全身状態が安定し、保育器から出た段階で未熟児に対し眼底検査を実施するとの基準で臨んでいたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

しかしながら、前記一(原判決理由第三、二、2)に説示のとおり、第一審原告昌宏出生当時、光凝固法は未熟児網膜症に対する医療法として一般的医療水準に達しておらず、担当医師には、右凝固法の存在を前提とする眼底検査実施義務はなかったのである。したがって、眼底検査実施の時期が遅かった旨の第一審原告田村らの主張が採用できないことも明らかである。

(5) 同(二)(2)(a)ヘ(転医体制)について

(a) 第一審原告昌宏は、昭和四九年七月一一日に三菱京都病院から京大病院に転医して診察を受け、更に、同月一二日同病院で光凝固を受けているところ、第一審原告田村らは、第一審原告昌宏のような未熟児を転医させるについては、担当医が同行するほか、患児を保育器に入れるなどして万全の体制をとるべきであったと主張するので、以下検討する。

前掲甲第一四二号証、原丁第三号証の一、原審証人小柴壽彌の証言、原審における第一審原告田村孝司本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、三菱京都病院に入院していた第一審原告昌宏が、同年七月一一日に京大病院で診察を受け、更に、同月一二日同病院で光凝固を受けた際、同原告の両親が産着に包まれた同原告を自動車で運んだこと、その際、三菱京都病院の医師、看護婦は付き添わなかったこと(但し、同月一二日の帰路のみは、小柴医師らが京大病院に赴き、同原告を簡易な保育器に入れて帰った。)が認められる。しかしながら、本件全証拠によっても、当時、同原告の転医に際し三菱京都病院の医師らが同行し、更には保育器に入れたまま転医すべき全身状態にあったとは認められず、また、現に、小柴医師らが第一審原告田村ら主張の措置を講じなかったことのみを原因として第一審原告昌宏の容態が悪化したようなことも認められないのであるから、同原告の右転医に際し小柴医師らが第一審原告田村ら主張の措置を講じなかったことをもって、不誠実、杜撰な医療行為ということはできない。

(b) また、原審における第一審原告田村孝司本人尋問の結果中には、「同月一二日の光凝固手術の際に、宇山医師の要請により第一審原告田村孝司自身が手術室に入り、同医師が手術する間、同原告が第一審原告昌弘の頭を押さえ、看護婦一名が同原告の足を押さえていた。手術室には以上の三名がいたのみで、他に医師、看護婦は同室していなかった。」との供述部分があり、前掲甲第一四二号証(同原告の陳述書)にも同旨の記載部分があるが、右各証拠は原審証人宇山昌延の証言(第二回)に照らしたやすく採用できず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

仮に、光凝固手術が、第一審原告田村孝司が供述するような状況で行われたとしても、その結果、第一審原告昌宏に対する治療に支障が生じたとか、同原告の全身状態がそのことのみによって不良となったことを認めるべき証拠もないから、これをもって、直ちに不誠実、杜撰な医療行為ということはできない。

(c) 更に、第一審原告田村らは、同月一五日第一審原告昌宏が三菱京都病院から国立京都病院に転医するに際しても、三菱京都病院は同原告の母親に同原告を裸のまま連れて行かせたと主張するが、本件全証拠によってもこれを認めるに足りない。

(二)  第一審原告弥生について

(1) 同(二)(2)(b)イ(全身管理)について

原審証人三好鏡子の証言によれば、三好医師は、第一審原告弥生出生後、ほぼ毎日同原告を診察したことが認められる。原戊第八号証の一によれば、同医師作成の同児のカルテには、同原告の三菱病院における入院期間中合計五日しか記載がなく、診察日全部についての記載のないことが認められるが、カルテに記載がないことから直ちにその日には同医師の診察がなかったと断ずることはできない。

(2) 同(二)(2)(b)ロ(酸素投与)について

(a) 第一審原告弥生の出生した昭和四六年当時、いまだ酸素投与の方法として確立した基準は形成されていなかったのであり、したがって、三好医師の同原告に対する酸素管理について注意義務違反があるとはいえず、第一審被告日本赤十字社に債務不履行責任及び不法行為責任がないことは前記一(原判決理由第三、二、1)に説示のとおりである。

第一審原告平井らは、三好医師が血中酸素濃度ないしウオーリー・アンド・ガードナー法を指標として酸素管理を行っていれば酸素投与期間を短くできたはずであり、第一審原告弥生は未熟児網膜症に罹患せずにすんだと主張するが、同原告の出生当時、血中酸素濃度を測定して酸素管理を行うとの方法は一般に採用されておらず、また、ウオーリー・アンド・ガードナー法も酸素管理の方法として精密なものでないことは、前記一(原判決理由第二、五、1及び同第三、二、1)に説示のとおりである。

(b) また、前記一(原判決理由第一、二、8)に認定の同原告の症状の経過に鑑みると、同医師が同原告に採った酸素投与の方法が不誠実、杜撰な医療行為ということもできない。

(3) 同(二)(2)(b)ハ(眼底検査、光凝固)について

第二日赤病院の未熟児に対する眼底検査の実施状況についてみると、原審証人三好鏡子、同小泉屹の各証言によれば、同病院は、第一審原告弥生出生当時、酸素投与中止後速やかに未熟児に対し眼底検査を実施するとの方針で臨んでいたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

しかしながら、前記一(原判決理由第三、二、2)に説示のとおり、第一審原告弥生出生当時、光凝固法は未熟児網膜症に対する治療法として一般的医療水準に達しておらず、したがって、担当医師には、右凝固法の存在を前提とする眼底検査実施義務はなかったといわざるをえないのであるから、第一審原告平井ら主張の眼底検査実施義務違反の主張は採用できない。また、前記一(原判決理由第二、五、2)に認定の当時の医療水準によれば、第二日赤病院の三好医師、小泉医師が採用した右方針について、医師の研鑽義務に違反したとか、不誠実、杜撰な医療行為を行ったとはいえない。

(三)  第一審原告亜希子について

(1) 同(二)(2)(c)イ(眼底検査、光凝固)について

第一審原告亜希子の出生した昭和四八年当時、光凝固法は未熟児網膜症に対する治療法として一般的医療水準に達しておらず、したがって、また、同一検者が規則的に眼底検査を行うことも一般的医療水準になっていなかったことは、前記一(原判決理由第三、二、2)に説示のとおりである(原審証人本多孔士の証言によれば、京大病院においては、昭和五〇年八月に研究班報告が公表された後、間もなく同一検者が眼底検査を規則的に行う態勢が採られるようになったことが認められる。)。そうである以上、同原告に対して眼底検査を行う医師が途中で替わったこと及び同原告の担当医師が光凝固法施行の適期を誤ったことを理由に第一審被告国に責任を問うこともできないといわざるをえない。また、光凝固の機会を奪ったことを理由とする損害賠償請求が認められないことも、右1に説示のとおりである。

(2) 同(二)(2)(c)ロ(回答箋の改ざん)について

前掲甲第六一号証の二、原己第一一号証の一、成立に争いのない己第一九号証の一、二、原審における第一審原告野口榮吉本人尋問の結果により成立を認める甲第一四五号証の一、原審における第一審原告野口とき子本人尋問の結果により成立を認める甲第一四五号証の二、原審証人本多孔士、同永田誠の各証言及び原審における第一審原告野口榮吉本人尋問の結果によれば、第一審原告亜希子とその両親は、木多医師の紹介を得て、昭和四九年三月一九日天理よろづ相談所病院眼科の永田医師の診察を受けたこと、その際、永田医師は、同原告の眼底所見に基づき、同原告に対してなされた光凝固の時期、部位等についての批判的意見を回答箋(甲第六一号証の二は、その写である。)に記載して、これを両親に京大病院宛持参させたこと、ところが、その後、右回答箋を読んだ本多医師は、永田医師の意見には誤解があるとして後日同医師と面談した際に、同原告の症状の経過等を説明したこと、永田医師は、これを聞いて、先の回答箋の内容にはその表現において強すぎた箇所があって一部訂正する必要を感じ、後日、同月一九日付けの回答箋(原己第一一号証の一のカルテに貼付されている。)を改めて作成して京大病院に送付するとともに先に送った回答箋との差し替えを依頼したこと、これに基づいて、先に同病院に届けられていた回答箋が後日永田医師が作成送付した回答箋に差し替えられ、カルテに貼付されるに至ったこと、永田医師としては、後に作成した回答箋に記載された意見が最終的なものであるとしていることが認められ、右認定に反する証拠はない。右認定事実によれば、永田医師作成の回答箋の差し替えは何ら京大病院側の意向に基づいてなされたものではなく、したがって、これをもって、京大病院が同原告に対し不誠実、杜撰な医療をしたということはできない。

(四)  結局、第一審原告昌弘、同弥生、同亜希子に対して各担当医師らが採った処置について、不誠実、杜撰な医療行為があった事実は認められず、また、以上のとおり検討したところによれば、担当医師らが採った個々の行為(作為又は不作為)について、第一審被告らに債務不履行責任又は不法行為責任を肯認すべき事実も認められない。

3  以上によれば、第一審原告後藤らを除くその余の第一審原告らの予備的請求原因は、前記のいずれの理由によっても採用できない。

三よって、原判決は正当であり、本件各控訴はいずれも理由がないのでこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、九三条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官弘重一明 裁判官岩田眞 裁判長裁判官吉田秀文は、退官につき、署名捺印することができない。裁判官弘重一明)

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